前回の日誌の続きです。
振り返ってみると、私が寝て夢を意識できたことは、初めてだ。
私は夢の中で「私」を見ていた。
私はそこに立っていた。
そこでは、「期待君」は「絶望君」と名乗っていた。
「成果ちゃん」は相変わらず、遠くにいるのだけれど、遠くでその名を「幻想」と名乗っていた。
「賞賛さん」私を見下しながら、自らを「罵声」と紹介をした。
「失敗」は相変わらず、私の後を追いかけてきているようだ。
そしてここには、何もなかった。
なぜなら、私は歩んでなかったから。あまり自覚はなかったが、
どこにも向かえず、進んだ道も、進む道もなく、なんとなく時間が流れていることは、時折通り過ぎる他人の結果を見ることで分かった。
だが動かない。夢の中の私は動かない。
それは危険に気づいてしまったから。これまで気づくことのなかった危険に、今、気付いてしまったのだ。
「失敗」は追いかけているのではなく、この先にいるのだ。
だとしたら、進めない。進みたくない。
それにより、「期待」は「絶望」へ。「成果」は「幻想」へと変わっていった。大人は実はそれこそが彼らの本当の名前だという。
もう進むことはできない。
先には、間違いだの、失敗だの、幻想だの、絶望が待っていて、それに加えて罵声までいる。
歩けるわけがない。
「本当に?」
私が、夢の中の私に尋ねた。
「本当にいるの?この先に?」
聴きながら語りながらの時間が始まる。
世界は破壊と誕生の力によって織り込まれている。
人生もそうである。この二つの力が共存している。
同じように人生における破壊は生じるのである。そして私が世界のそれに、作用できることはほとんどない。
だが、私についての破壊と建設的な力であれば、私がこの世界で一番作用を与える事ができる。
私が破壊したいのは、将来にある「絶望」や「失敗」である。
いや、破壊すべきはそれではない。なぜならまだ存在していないのだから。破壊しようがない。未来における「絶望」や「失敗」を破壊しようと思ったら、それを産んだ存在からだ。
それを「不安」という。
今、歩けない私にとって、将来、生じるかどうかわからない事柄よりも、今現時点で生じている「不安」のほうがよっぽど有害なのだ。
破壊すべきはそれである。
その破壊に、他人ができることは少ない。あなたの不安なので、あなたがするしかない。そしてその破壊に必要な力とは、「勇気」である。
どうやったら、勇気が持てるのか?と、他人に頼るべきではない。自ら生み出す事でしか「勇気」その価値と能力を持たない。
ただ、「不安」を破壊するために日常において「勇気」になるであろうエネルギーを蓄えることはできる。
世界は、日常にそれを組み込んでくれた。
それを、「仕事」という。したくないし、やりたくないという要素を含んだもの。でも、「しなければならない。」という事柄。それを行う。
そこには「意思」が存在している。「意思」とは、エネルギーだ。何にもなれる「期待」に踊らされることも「不安」に支配され無気力になることもない。
何にでもなれるエネルギー「意思」がそこに存在している。
君は、楽なことしかしてないだろうか。
君は、嫌なことの手をすぐに、振り払っていないだろうか。
できたらいいのに。。。と、思いつつ、諦めてしまってなかったろうか。
「勇気」の蓄積のために、日常における仕事を通して「小さな困難」を経験しよう。
そして破壊すべきは「不安」
作り出すべきは「勇気」
そして私は、小さな一歩を踏み出す。
歩み出したその時、
今、私を踊らせる「期待」に向けて、『私を捧げるにたる「希望」』とそれを、名付けよう。
今、私を引っ張り、欲を加速させる「成果」に、『誰かの力となる要素を持った「感謝」を加えよう。』
今、私を過剰にし、成長と止める「賞賛」を、飾りや勲章ではなく、困難の際に芽吹く、励ましとなれるよう、膝をついて謙虚に受け取ろう。
夢の中の私が、「仕事」を始めた。
日常に成長の機会を持ち始めた。
感謝と謙虚を表現とし、不安や絶望を破壊する力「勇気」を蓄え始めた。
朝決められた時間に起きる。
朝ごはんに集中する。
歩く。
意識は日常や当たり前から、勇気を抽出できるようだ。
意識して行う。こう生きたい。こう在りたい。をささやかに織り込みつつ。
私は、こう生きたいと、決めた。
私の背後に、らしさと美しさの道が生まれた。
私の謎が解かれ始めた。
(続く)
「夢ハウス」「目標ビル」
誰が頼んだのはわかりませんが、「期待くん」と「成果ちゃん」は私の人生の上にお家を建ててくれます。そのお家は「夢ハウス」とか「目標ビル」とか書かれています。
私は時折、その場所についての情報を「期待君」からの手紙で知ります。
それは、それは素晴らしい場所で、楽しさと嬉しさしかないような場所です。(行ったことはないですけど。。)
そしてそこに向かって旅を始めます。
辛くても大丈夫。
しんどくても大丈夫。
無理をしても大丈夫。
だってそこに行けば、評価や成果があって、利益があるからね!
幾多の困難を乗り越えさせられ、動かされながら、やっとその場所にやってきました。
その家に着くと、期待君はおらず、成果ちゃんは、また明日引っ越すそうです。
ちなみにその家は、明日から展示場になり、名前を「自慢ハウス」にするそうです。
自分に満足!なんて素敵な場所なんでしょう。
でも、夢や目標がないのは、いけないのです。
向上心がなくなるのは、もっといけないのです。
でも大丈夫! 安心して!新たな「夢ハウス」が誕生するからね! ここよりも、もっと大きくて、快適で、なんと次は「賞賛さん」もそこにいる!
それが、あなたが自分では推すことができない「やる気スイッチ」を押してくれるから!
それに押されたら、強制期的にやる気が出るから大丈夫!
ここからまだだいぶ先にあって、辛くて大変だけど、その新しい「目標ビル」には、絶対に来た方がいいよ!最高だから!
そう言って、成果ちゃんは、翌朝早朝、旅立ってゆきました。跡形もありません。
私は、颯爽とその新しい夢ハウスを目指して、歩み始めます。 これまで以上に大変で、道には、疲れ果ててしまった人、心が折れてしまった人、倒れて動けなくなった人がいます。
でも、そんなものに構ってる暇はありません。
だって、そこに「新・夢ハウス」があるんですから!
何振りかまっていられません。「成果ちゃん」がそこにいる「賞賛さん」もそこにいる。
時折「期待君」から手紙が来て、色々楽しそうなことを教えてくれる。
早くそこに行かないと、早く仲間にならないと。
そうしないと、今までの私の歩みが無駄になってしまう! 全て水の泡となり、無意味なことになってしまう。
期待君からの手紙に、私の後ろから、「失敗野郎」が追いかけてきてると書いてあった。
急がなきゃ。急がなきゃ。
さっき見かけた人は、夢ハウスに辿り着いた。と、自分で自分に満足しながら語っていた。 こないだの人は、目標ビルから私を見下ろして励ましてくれた。
失敗野郎だけには、追いつかれたくない!
血も出てきたし、道は細くなって、崖になってるし、辛いし、しんどいけど、頑張らなきゃ!
そして必死の思いで頑張り、私はそのビルに辿り着いた。辿り着いたのは、あなた一人だけ。
良かったですね。あなた一人だけです!!
賞賛さんが褒めてくれた。
ああ。。。。やっと辿り着いた。
ああ。。。。やっとこれで楽になれる。。。。
ゆっくりできる。。。
私はそこで、成果ちゃんに一瞬だけ会い、相変わらず、期待君はいなくて、賞賛さんの声を微かに聞きながら眠ってしまいました。
自分が誰だかわからない。わからなくていい眠りにつきました。
また起きたら、きっと、次の引越し場所があるのでしょう。
ですが、その前に、違う私の夢を見ました。。。
その私は。。。。(続く)
生々流転
「生々流転」
静かな時間って、自分を上手に扱える様になるためには、とても大事です。 自分を感じたり、自分を知ったり、けれども自分を決めつけることなく。 思い込みや、戯れな妄想にも流されない。
そんな時間を1日の中で、5分でもいいから持つと、良いですよ。
良い考えや、解決策を見つけるためでなく、自分をゆっくりと知ってゆくための時間です。
特に、「感情」と、「思考」の相互作用について知れるといいですね。
この感情の背後にはどの様な思考のイメージが作用しているのか。
この考えの背後にはどういった感情の支配や作用が働いているのか。
これらの秘密は、自身でしか見つけることのできない関わりです。
それは、後に、あらゆる物と自分との立ち位置を明確にし、適切な距離感をはっきりと教えてくれます。
そして、ゆっくりとその感情と思考の相互作用を意識して生きるようになると、元々、生まれてから死滅までの、この人生において生じる成長と繁栄の法則に従うだけでなく、衰微し死滅してゆく法則にも自分と自分の人生の進化を見出せるようになります。
そうなる時、人は進化に向けて、完全に従う事ができるようになる。
日々、本当に忙しく、事実として、人生を燃やしながら生きています。
その人生で獲得した、得したものだけでなく、損をしたり、失ったり、無くしてしまった、それら死滅してゆく事に似たもの全てに向けてすらも、意味あるものを見つけられる眼差しは、本当に憧れます。
いかにして他人の考えや心中を知ることができるや。
私の学んでいる学問では、自分との語らい「瞑想」を大切にしています。
(何も目を瞑っってじっとしておくことだけが瞑想ではないのですが・・・。)
とにかく瞑想は、「最良の答えを出すため。」というものとは、少し遠う活動のように感じます。
ですが、自分の考えを元に、自分の意志の下、行為した結果を自分が右往左往することなく、受け入れ学ぶ準備ができる人への「道」のような気はします。
そしてその道すがら、時折、気づきはやってくるもので。。。
言ってることや、表現されている文字だけは、ほぼ全く同じ言葉なのですが、その雰囲気が全く違う場合があって、それに気づくことが、なんとも愉快で不思議です。
ここに一つ残しますね。
「いったい、どうやったら他人の心や思っていることをわかることができるの。」
文面なので、伝わりにくいかも知れませんが、これを二つの雰囲気で言うことができます。
一つは、「分かりっこない!」という、何かが、強く分かりすぎているので、出てくる悲しみにも似た断絶の雰囲気。
一つは、「どうやったらできるのだろう」という雰囲気。ささやかな好奇心と関わりをやめない、可能性と歩み寄りの雰囲気。
また、前提として人の心や考えに対して「絶対にわからないので、無理だよ。」という意見があります。
そうでしょうね。。。。それは正確だと思いますし、それでいいのだとも思ってもいます。
不思議なことにそれとは反対の、「あなたの思っていることは、完全にわかった!そして私の理解は絶対にあってる!」は、私にとってだいぶ、不気味です。
だから、「分かりっこない。」は正確だと思います。
ただ、「分かりっこない」に私の行為の主導権を持たせようとは思いません。知ってます。「分かりっこない。」ってこと。それを承知で、「わかろう」と思います。
今、私は、あなたの考えや行動を見て、分からないことが多い。
でも、私がどのように考えを巡らせれば、それを理解できるようになるだろう。
これは、もう一つの雰囲気です。
どちらの雰囲気や想い、考えを乗せて言葉を発するのか?
そこには世界の表現に際して、自分が関与できます。
同じ言葉でも、その背後にある考えや気持ちにより雰囲気によって世界に表現される内容や作用は全く違ってきます。
言葉は日常、他人に向けてできるプレゼントです。そこに、どのような想いが乗るかによって、プレゼントの意味や価値は変わります。
そして、人はその想いを以外に上手に見極め、受け取ります。
世界へのまたは他人への表現を正確に。という話ではありません。
表現の際、あなたを込めることができる。という話です。
同時に、何を込めるかは、自分で決めて良いのです。あなたが決めたのであれば、それは「らしさ」になるので、きっと何かが、その存在に気づきます。
学びの中で、ふと、共有したくなったので、ここに載せておきますね。
自分を味わう
ゆっくりと過ごす。
自分で自分の人生を自分を使いながら、自分が好むように美しく歩く。
そして、自分にできることをしたなら、「運」と、「縁」とが協力できるように、結果はお空に任せる。
そうすると、きっとライフは成るようになるのだと思います。
私の場合それを阻害するものはたくさんあるのですが、「くせ」や「利己主義」「欲」etc…
これらを否定しているわけではないですよ。
私がこれらを上手に使えない。という話です。
でもだからといって、これらを撲滅しようということではないのですよ。
叶うなら、もっと仲良しになって私の中にある、この子達の話や、なぜそうしなければいけなくなるのかの気持ちや、想いの話を聞きたいです。
でね。そのためには、自分で自分を感じる時間がいるわけですよ。
自分を味わう時間。 大事です。
そしてそれが上手にできたら、この写真のようなことにも気づけるのですよ。
自分とお茶を味わうという心地よい時間に現れた、素敵な笑顔をおすとわけです。
みなさま。良い時間を。。
言霊への進化
理想と現実。自分と他人。思考と感情。
こういったものは、分断されているように感じられます。
まぁ、確かに分断されているのですが、分断が悪いわけではなく、分断されれているからこそ、こと、進化に対しては必要な状況です。
『言霊への進化』ですが、、、
多かれ少なかれ、関係性がある人との間では、言霊は、相手に対して作用するものと考えてます。
でもそれは、「言霊」の本質とはちょっと違っていて、受け手が持つその言葉に対する考えや、印象が、その受け手の人に作用する感じです。
これは、発した言葉が、宇宙に組み込まれる「言霊」とは、結果の切り取りにおいては似ていても、道理も本質も違います。
私の発した言葉が、世界が調和を奏でる為の一つの音となり、組み込まれるには、人間の中でのある活動が助けとなります。
よく聞く言い方に、「理想は現実とは違う。」とか、「理想通りにはできない。」とか、ありますが、それは、理想と自分の人生の分断によって、その考えが生まれます。
確かに「理想」は美しかったり、崇高だったりしますが、それを持つ人間が結果、理想による自己批判や、他人批判、自己評価の低さや、ジャッジをする首謀者であるならば、この「理想」は、あまり健康的に働いてる。とは、えません。
どのような立派な考えも、結果、その人にとってどう作用するのか、その立派な考えにより、その人が何をするのか。が、地上では大切だと思ってます。(重要視したいのは、何を言うか、より、何をやっているか。って、ことですね。)
また、同時に、理想に生命がないと、誰かにとってその理想は、無味簡素なものとして、味のないパンのように、感じてしまうでしょう。
理想とは日常と違い、「願い」にも似ているので、そのような印象や雰囲気を「理想」にもつことは当たり前ではあるのですが、この他人行儀な「理想」をどのように「理想」と「現実」を行ったり来たりする人生に健康的に作用させるかというと、「感情」が鍵となります。
そもそも、感情とは、随分と個的なもので、人はそれを持って、自分の人生や経験を生き生きと感じます。
ただし、その感情は、その人にとってだけのものであります。
そういった、個的な要素をもつ「感情」を味のない「理想」に組み込むのです。
その方法とは、ある理想があったとします。
(特に、その理想を他人に提示する時は、この活動をして下さい。)
ある理想を持った、もしくは語ろうとする時、自分の人生も同時に見て下さい。その上で「理想」にどのような感情が湧くのかが大切です。
私もそうですが、とても「理想的」に生きているとは言えません。
(あ、ここでいう「理想」とは、自分にとって「得がある。」ではないですよ。)
「そうできたら、いいよなぁ、。。
なぜこちら側(自分)が変わらなければならないのか。
私がここ何年も望み、学んでいることは内的な成長です。
世界をどう見るかは、私の内側に何があるかで、変わってきます。
その内界にあり、外界へと作用するものを「経験」や「記憶」と言います。
(まぁ、「感情」なんかも、影響を与えるのですけどね。。)
その内界を育むことを
”Inner-work”(インナーワーク)
と、言います。
で、Inner-work とは、多くの時間を決められた時に、自分の内界に対して働きかけをする。という事です。
どのような働きかけをするのか。 には、さまざまあるのですが、、、
(方法というより、動きの多様性が必要です。)
ここで挙げたいのは、「変化」ということです。
大人の場合、主に思考を変化させる必要があります。
そう、、「必要がある」これは、結構なパワーワードなので、
この言葉を聞いた時、何人かの人は、
「なんで私が?!」とか、
「あの人が悪いのだから、あの人が変わるべき!」とか、
「世間やそのプログラムが悪いのだから、それらを変えないと!」
と、声を上げたくなる人がいると思います。
(あ、でも、私はそれらを『私の考えに反している』からといって、『わたしの想いや考えに反対している』とは、思っていません。)
もちろん、そういったことで、問題が解決することもあるでしょう。
ですが、ここで話しているのは問題解決の話ではなく、内的成長の話です。
大人になると変化を迎えることは、とても難しいのです。
成長を願う人だけが、ある程度、他人からの言葉を受け入れることができますが、言い方や、状況で、拒絶したりしてしまうこともしばしばです。
それは近年、自我の力が成長している人間に起きる、ある意味必要な過程なのですが、皮肉なことに、それが私の外界を通しての、内的成長を妨げてしまうのです。
もう、誰も一人の完全なる教祖や英雄や師に従って行こうとは思わないのです。自分で、その道を進み、自分が自分に対して師であり、英雄でありたい。そのように願うようになってきています。
その想いの中成長しようと思うのであれば、自分に対して「変化」を与えるのは、まさに「自分」でなくてはならないのです。他人ではなく、答えの決まった教本でもなく、自分なんです。
なので、
変わるのは、こちらなのです。
それは、刹那的な損得でもなく、勝ち負けでもなく、天国に行くためでもありません。私が私として私の人生に参加することを可能にします。
自分を変えるスタートは、多かれ少なかれ「否定」や「破壊」の雰囲気を纏いますので、辛いですけどね。。。
一つ良い知らせがあるのですが、
「他人は変えれなくても、世界は変えれます。」
あなたは世界を作ることができることを、どうかお忘れなきよう。。。
信じているものを、否定することの意味
私が成長をしようとする時、その人が人生で経験して来たことを、全て否定されているような感覚になってしまう時があります。
それは、その人にとって経験して来たことがその人を守っていたり、安心感をくれているからなんですね。それをよく「当たり前」っていいます。
「当たり前のこと」が無くなってしまうと、人は途端に不安になったり不都合を感じたりします。
このように、私たちの「当たり前」は微妙にそれぞれの人で違うのですが、それぞれの人を守ってくれている。という点では共通してます。
人生を生きていると、矢とか鉄砲とか、飛んできますもんね。
でね、そういったことから私を守ってくれているのです。
ところがそれもまた、いろんな人に共通しているのですが、自分が内的に成長しようと思った時、この壁は守ってくれる城壁ではなく、あなたの成長を妨げる障害となってしまうのです。
「こうしたいのに、できない。」とか、「わかっているけど、やれない。」
こんな雰囲気なのかもしれません。
ですが、人生は、とても優しいので、この内的成長のきっかけを「痛み」や「不幸」といったものを通して感情をきっかけに成長を促進させてくれます。
そして大人の場合、その内的な成長のスタートは「思考活動の変化」から始まります。それがスムーズだと思います。
ここで大切なのは、思考活動の変化により考えられた結果や成果、アイデアが大切なのではなくて、そこに辿り着くまでの道のりの方が、大事だということです。
当たり前のことを、自らの力で否定して、再構築する。そしてまた状況に王子で窓がつけれたり、ドアをつけれるようにしたりする。
それが、日替わりで、また、秒間隔で変わる。
とても素敵です。
私のクラスではそういった「当たり前」と関わる時間をたくさん持ちます。
ただ、ちょっと、「当たり前の否定」は、心が痛くなる時があるので、どちらかというと、「当たり前の保育」なのかもしれません。
まだまだ、未熟なだけなのです。成熟に向けて育むことができるのですよ。
成長の妨げとなる「当たり前」を切り捨てるのではなく、育むのです。
不幸をきっかけにすることなく、まだ道半ばの未熟な当たり前の成長と進化に参加できることを、ここにお知らせしておきますね。
わたしは変わりたい
私は変わりたい
そう願う時.それはこれまでの自分を乗り超える事であり、置き去りにすることであり、またこれまでの自分とは違う自分に出会うことや、生まれ変わること。
なのですが、それは同時に、これまでの自分を殺すことでもあり、これまでの自分に死を与える事が、必要となってきます。
これまでの自分に『死』を与えるとはどういう事でしょう。そして、その先にある。
“生まれ変わる“とはどういったことなのでしょう。
まず『死』からお話ししますね。
『死』にしろ、『生まれ変わった自分』にしろ、そうなるための道というか、道具が必要となります。
※[ちなみに]「具」とは:常に備えておく。つぶさに。必事な分だけ。という意味を持っています。そう思うと、それぞれの人生を表す「道」に対する「具」である、「道具」っておもしろい言葉ですね。
そして、その「道具」とは、、、名付けるのが難しいのですが、仮にここでは、それを“Spiritual”や、「霊」とします。
"Spiritual ”の意味ですが、それはこれまでとはちがう人生時間への入口、また「(地上で生きてきた)これまで」
と
「(目に見えない世界をも生き始めた)これから」の境用線を表します。
その「これまで」と「これから」においては「死」に対する、向い合い方も変わっていて、
『これまで』で、あれば、、
私が死ななければならない時が来たのならば、私は死ぬしかない。死からは逃れられない。
ですが、、、
『これから』で、あれば、、
私が、死はななければならない時が来たら、私は努めて、死ななければ死ぬことができない。死とは自らが行わない限り、迎え入れることができない。
と、いう感じに変化します。
このような変化を遂げるきっかけとなる “Spiritual“ですが、それは自分の内界に対して手をかけ、関わりを持つ事を指します。
これまで環境と運命しか携わることのできなかった領域(主に無意識からの支配や作用)に、自分も携わるのです。
その際、「我慢」や「強いること」はあまり必要ありません。それはまだ、「理解する」という優しさにも似た栄養が足りないだけですから。
それで私が、私の内界に関わりを持つ際、最初にするのが、「手放す」ことです。
ここで手放すものは、「欲」や「自我」、「悪い自分」ではないですよ。
手放すものは、私の働きかけなく私の無意識という領域に存在し、私が無意識的に信じてしまっているものたちを指します。
そういったものは、日常では「当たり前」とか、「常識」とかいいますが、最終的には、現在、意識にも現れない無意識下で私に作用する事柄とも関わりをもち、「死」を迎えます。
無意識に信じているものはたくさんあるのですが、、
あ、無意識に信じてること。それを「悪」とは言ってませんよ。無意識に存在してしまっているものからの支配や作用に全く無力である。この立場に対して、働きかけができるよ。っという話をしようと思ってます。
でも、まぁ、今日はここまでにします。。当然、続きます。。。
出来事の意味
今日あることがおきました
それはとてもいいことでした
なぜなら昨日が「あー」だったから
でも、
明日が今日になって「こー」があれば
昨日のそれはどうなることやら
三日後には何になるやら
10日後には
きっと
忘れてる気がする
別の何かが私に被さるから
嬉しや悲しやは
今と共に今の私を教えてくれる
だから今の出来事を決めたがる
私も決められる
決めつけられることも
決められたことをすることも
あんなに嫌いな私なのに
今の私は、今を決めつけたがる
そして決めつけたくせに
また忘れて繰り返す
本当のことって
いつになったらわかるのだろう
して来たことの意味って
いつわかるのだろう
あの人がした酷いことを
受け入れがたい硬い意味を
溶かして全部を知れることって
いつできるんだろう
きっと
私全部を振り返ることでわかるのなら
一区切りは「死」
死ぬ時に本当の意味がわかるなんて
もともと意味なんて
生きてる時に役に立たないみたい
今を生きるのに意味なんてなくていい
今を生きるなら
好きと嫌いでいい
時には嫌いを愛して
時には好きを拒絶して
意味は死後に任せた
身体を新しくする動き
私たちの身体は定期的に死んで生まれ変わることで、生命を紡いでいます。
その際、心理的な作用が、体に影響する事はやんわり、科学もわかり始めています。ストレスだったり、リラックスだったり、セロトニンだったり、ドーパミンだったり。。。
それで、具体的にどういった心持ちが身体に対して良いのかというと、、、
実はそれも身体が教えてくれていて、、、
それは、「死ぬこと」です。 幸せなことに人体は勝手に死んでくれるのですが、心持ちは、頑張って死なないと、死ねないのです。
その「死ぬこと」を「手放す」とも言います。
その人にとって、手放さず、掴んで離さないものは、変わることがありません。どんどん固くなって行きます。
生まれ変わりの機会を失うのです。残念な歳の取り方です。
心持ちや、考え方。それは、「死」を迎え、無意識に帰り、要素だけになり、秘密裏に私をサポートするものになれるのです。
こだわりや頑固さ、誰かが言う「当たり前」や「常識」。
確かに、無いと困るものですが、失って良い。ということではなく、その都度、状況に応じて再生すると、その人の世界との関わりが、柔軟に。
慢性的でなく創造的に活動できるようになると思います。
お試しあれ!
2005年帰国する直前に創ったもの
昔、あるところに、小さな、小さな生き物がいました。
彼は、あっち、こっちに行くことができましたが、手と、足がありませんでした。
あるとき、砂の中に埋もれてる小さく光るものを見つけました。彼は、毎日そこを通るたんび、それが何なのか、気になって、気になって仕方ありませんでした。
彼は、生まれてはじめて「手がほしい」と思いました。
砂に埋もれた光を感じたいと、思いました。
毎日、毎日彼は、想いました。
ある朝、暖かい光を感じて目がさめた彼は、自分のからだに両手があるのを感じて、心のそこから喜んで、早速、砂に埋もれた光をとりに行きました。
砂に埋もれたその光は、はんぶん光で、はんぶん闇の、彼の生まれた場所でした。
それから、幾日か経って、彼は、大きな木を見つけました。
緑色に身を包み、ゆれるその姿にうっとりした彼は、この木に登ってみたいと思いました。
彼は、生まれてはじめて「足がほしい」と思いました。
大きく揺れるその姿を見ながら、大木からの景色を何日も、何日も思いました。
ある朝、暖かい光を感じて目が覚めた彼は、自分のからだに両足があるのを感じました。
両手両足を使いその大木の上へ、上へと登っていきました。
彼は、同じ世界の違う景色を心から楽しみました。
それから幾日か経って、彼は、世界がどこまで続いているのか、「世界の終わり」を見てみたいと思いました。
彼は、両手、両足を使って、まっすぐ、ただ、まっすぐ、進んでいきました。
どれくらいでしょう。どれくらい経ったのでしょう。生まれた場所を昨日、旅立ったような気もするし、何年も前のような気もします。しかし、いつまで経っても、一向に、世界の終わりには、近づけません。
両手、両足、心も、ぼろぼろになった彼は、あおむけになってねっころがり、ゆらゆらゆれる景色をしばらく見つめて、心のままに目を閉じました。
どのくらい経ったでしょう。暖かい光を感じます。
どこからでしょう。彼は、体が浮くのを感じました。
そして、そのまま、感じるままに、上へ、上へと向かっていきました。
かおを何かが撫でてくれます。それは、やわらかな風でした。
かぜの向こうを見渡すと、そこには、きらきら輝く満天の星空がありました。
彼は、思いました。
「世界に、終わりはないんだ・・・・・。」
心がうれしくなった彼は、言葉に、想いをのせました。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「ツゥ~・トォ~・ラァ~・ブゥ~………ラァ~トォ~ツゥ~。」
彼は「かえる」といいました。
蝿の王
旧約聖書に「蝿の王」が出てきます。 悪魔の王なのですが、
なぜ「蝿」なのか?「コウモリの王」とか「暗黒の王」の方が、なんとなくイメージは追いつきやすいのですが。。。なぜか「蝿の王」です。
今回、その謎と遊んでみようと思います。
最近、少し、面白い見方を獲得しました。
「『知覚できるもの。』は、絶対的にそこに存在する。」これは、納得しやすいです。
ところが、
「『知覚できるもの』は、そこにはない。」という考え方です。
随分と、突拍子もないですが、突拍子のない事であれば、あるほど、私は理解力を働かせねばならないので、そういったことは、私の理解力を育んでくれます♫
なので、考えてみる。
「知覚するものは絶対的に存在する。」そして、このアプローチが積み重なると、自分の中にある感情や記憶も、絶対化しやすいです。
そして、それが対象に対してまるで、名前を貼り付けるように、目の前の対象を定義付ます。
きっとこの行為は、「良い」とか「悪い」ということではなくて、こうしてないと地上で生きてゆくのは大変だからでしょう。
(まぁ、人生は、この側面だけで、できていないんですけどね。)
人生を生きていると、いろんな事に、また、いろんな人に出逢います。
その過程で、「痛み」や「不安」、「悲しみ」や「嫌悪」を持つ時もあります。(もちろん、「喜び」や「幸せ」もあります。)
そういった経験からくる自らの感情を、まるで、そこに物質があるような感覚で眺めてしまうと、その「悲しみ」や「不安」は絶対化するので、本人は、だいぶ辛いと思います。
(ちなみに、「幸せ」や「喜び」を絶対化すると、「期待」や「妄想」に飲み込まれやすいです。)
ただ、今回、出会った考え方によると、私が生きてる人生において、何かしら起きるにしても、何かしらそこにあるとしても、「それは、ない。」という考え方です。
どういうことでしょう???
もし、そうなると、、、、もし、それが、そこにないものだとしたら、どこにあるのか?
感じるのは確かだし、認識もできるので。
。。。。と、いう事で、
それはきっと、自分が(それぞれが)造っているものたちなのです。
この考えに賛否両論あって、(いや、「否」の方が多いでしょうが、)当然なのですが、上記のように考えてみます。「蝿」の理解のために。。。
(そして、、今日は、ここまで。)
はい。 今日になりました。 話を続けます。
対象に対する認識や感情は個人の中にあって、世界にはない。という考え方です。
これは極端で、面白い考え方です。 私が認識できないものを「ない」と呼ばなくて良い、在り方です。 マックス「わからない」でしょうね。
そうなってくると、私たちがあらゆる対象に対して持っている認識や理解を一つにしてしまったり、固定化すると、どんどん世界は閉じられたものになってゆきます。 これは、物質化と呼んでもいいように思います。
不思議にも自分自身にもそれを行うので、どんどんその人は、自分に何もできない。と、思い込みます。自分は変われない。でもいいです。
元々、自然界では、物質化、顕現化というのは、可能性が方向性を持ち、役割を得てそれが死滅へのプロセスを歩み始めた状態の時に現れる現象です。
そしてその死滅や破壊は、また次なる可能性の蓄積となります。
そして、その次なる可能性に進めなくさせるのが、内面で生じる、硬化、物質化、絶対化です。 成長がなくなりますので。
仮にその行為を悪魔的と考えたとしましょう。
あらゆるものには、さまざまな側面や可能性があるにもかかわらず、それを一面化、絶対化する動きです。
さぁ、そこで、「蝿」です。
例えばここに何か「物」があって、それに蝿が群がっていたとします。
するとその人は、その物を「悪いもの」と判断します。
たとえそれが、「薬」出会っても、蝿が群がっていたら、それを悪いものと判断しがちです。
これも一つの考え方(蝿による「これは、悪いもの」)ですが、ポイントは、今、私がした判断から、動く事が全くできなくなる。ということ。この判断以外を受け付けようとしなくなる事です。
そして、もう一つは、その対象である「物」から、その「物」の判断をするのではなく、そのものではない対象の「蝿」により、その「物」を醜悪なものと判断する。そして、それを操る事ができるのが、「蝿の王」です。
だいぶ怖い悪魔が生まれた感じがします。
悪の王が蝿の王と呼ばれるのが、なんとなく、理解できたような気がします。
自然の中での物質化はその中に破壊や破滅を引き受け、次なる可能性に向けての栄養となれます。
しかし、人間の内面においては、私が神であり、私が自然を統治するものなので、私が、それを意識的に行うことをしなければ、硬化したイメージは、次なる可能性へと向かうことはないのです。
私が、自由という力を使って、それを行えるのです。
ただ、悪魔に支配されてしまうと、それができるとは、全く思いません。
閉じ込める力、進化、発展させず、停滞を永遠と思わせる力。
確かに、悪魔的な感じがします。
さすが、「悪の王」です。
最後に、(これも聖書に載っていた話ですが、あれ?福音書だったかな?)
まぁ、いいや。
人には、こんな可能性もあるのだというお話をして終わりたいと思います。
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キリスト弟子と共にローマへ向かう道すがら、腐った犬の死骸と出会ったそうです。
その時、弟子を含めた周りの人は、蠅が群がりウジのわくその死骸を、忌み嫌い、迷惑そうに蔑むような目で、その死骸を避けながら、歩いていたそうです。
しかし、キリストは、その犬の死骸の歯並びの美しさに感動し、その場でそれを讃えるための歌を歌ったのです。
これは、悪臭を放ち、見るに耐えない醜悪なものがそこにあっったとしても、その同一存在の中にある美しいものを否定する要素にはならない。というメッセージのように思います。
悪魔とは違ったまなざしですね。
以上。「蝿の王」について考えてみました。
私も含め、私の可能性に向けて、のんびり考えていただけたらと、思います。
「私で在る」
私はいつでも私でいたい
だって私は唯一なので
ところが、私はとても自由で寂しがりやなので
いろんなものと一つになりたがる
怒り 悲しみ 享楽 心配 不利益 爆笑 寂しさ 勝利 安心…
その都度
私が消えてしまう
眠りこけて 夢を見て 不自然な妄想世界を必死に生きる
私が必死になった時
私が私の前から消えてしまう
必死な私をみてられない
私が私を肯定するのは
素敵な部分でも 独りよがりの部分でも 認められたい部分でも
美しい部分でも ポジティブな部分でもない
私が肯定するのは
部分ではなく全部
「いい」「悪い」を超えた
全部
・
・
・
「うん。うん。へぇ〜。。。。。。。。本当に?」
「そっかぁ。。そうだったんだ。。。うん。うん。」
「なるほどぉ。。。。うん。いいよ♪大丈夫。ちゃんとわかってるから。」
そう言って私の全部を理解して微笑んでくれる私を消さないために
私は私を決めつけない
「私が在る」と言えるのは、そのこが私をいつも見ていてくれるから
だから私は私を決めつけない
只々 知ってゆくだけ
今日もわからないことがあった。納得できないことがあった。
私がいう
「そうかい。じゃぁ、旅の準備を始めよう♪」